神 奈 川 宿 を 歩 く 2011/10/2  ※画像クリックで拡大します

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 長い残暑もようやく退散し、秋らしさが増した穏やかな日、神奈川宿あたりを歩きます。
 集合は東横線反町駅。ゲスト2名を含む16名で出発します。
 まず、駅前の階段を上ります。東白楽駅 - 横浜駅間は、2004年に地下化されており、廃線跡の一部は東横フラワー緑道として整備されています。遊歩道になっている高島山トンネルの手前を折れ、今日の最高地点の高島山へ。ここは鉄道工事などの横浜近代化に寄与した高島嘉右衛門の別邸があった場所です。

 山を越えると、足元に東海道の道筋、視線をあげると袖ヶ浦と嘉右衛門が敏腕をふるった埋め立て地が望めたはずです。今はビルにおおわれていますが、右下の鳥居あたりが東海道です。

 山を下り、神奈川台関門跡へ。

 <明治初年の迅速測図>

 今も営業を続ける料亭、田中屋(明治期には龍馬の妻、お龍が一時中居として働いていた)を経て、アメリカ領事館が置かれ、生麦事件では負傷者が逃げ込んだ青木山本覚寺。ここで、高島山トンネルを抜けた近藤さんと再合流、神田さんも加わり総勢17名に。

 参道からは、第二京浜国道、鉄道(JR線、京急線の都合8本)が走る、広い切り通しが見えます。

 青木橋を渡り、旧東海道の宮前商店街を歩き、仲木戸駅周辺で昼食。
 午後は、高札場が復元されている神奈川地区センターから。ここには神奈川宿のジオラマがあります。

 神奈川台場跡。ここでは、通りがかったご近所のおじいさんに案内していただきました。
 なかなか入り込めない生活道路ですが、地元の人と一緒なら。

 下見では近づけなかった、角の石塁にも。

 <神奈川台場周辺の遷移>
 上から、
 迅速測図(1880-85)
 明治39年測図、同41年製版
 大正11年測図、同14年発行
 昭和20年部修、同22年発行
 この辺りの地名は、昭和53年まで棉花町(めんかちょう)でした。表札が残っているお宅もありました。

 最後は、笠のぎ稲荷神社、良泉寺を経て、神奈川新町駅で無事解散。

<オプション編>
 生麦歩き隊が歩いた GPSログを明治34年測図、41年製版の1/20000に重ねて見ると、旧東海道に分岐する麒麟横浜工場までの第一京浜(R15)も、東海道の道筋だったことがわかります。

 分岐地点にあった生麦事件碑は、2016年までの予定で一時移転しています。左が移転前。

 事件現場で生麦事件参考館に寄った生麦班本隊と合流しますが、歩き隊はそのまま歩き続けます。たどり着いたのが、昭和そのままのJR国道駅。歩きは終了し、鶴見線支線の海芝浦行きに乗っちゃいます。

 海芝浦駅はホームの下が海、改札は東芝本工場に直結して東芝私設の海芝公園以外には出られません。鶴見まで引き返して解散です。

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