渋谷、神宮外苑 1964 五輪の旅 2015/10/4

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 豪雨で始まった秋ですが、ようやく天候も安定して来ました。一方、東京五輪2020は、新国立競技場とエンブレムの見直しで揺れています。今日は、日本が元気いっぱいだった東京五輪1964の跡を、たどっていきます。
 10:00 渋谷ハチ公前集合。思ったほどの混雑は無く、集合はスムースでした。ゲスト1名を含む13名で出発します。
 先ず、公園通りを北上。パルコ(イタリア語で公園)開店を契機とする渋谷区役所通商店街による命名は1972年ですので、1964年当時は区役所通り。2000年4月まで存在した渋谷ジァン・ジァン前では、永六輔、伊奈かっぺい、高橋竹山などの思い出話が。みなさん、けっこう来てたようです。
 渋谷公会堂は1964年竣工。重量挙げ競技の会場として東京五輪の日本の金メダル第一号を産みました。三宅義信は、突貫工事で建設される渋谷公会堂を見て、選手だけが頑張っているのでなく、日本国中が頑張っているのだから勝たなければならないと思った、と語っています。
 2005年の改修で、ファサードは新しくなっていますが、隣りの渋谷区役所建替えに合わせ、今日(2015/10/4)の沢田研二のコンサートを最後に閉館。建替え工事が始まります。
 次いで国立代々木競技場、第一体育館、第二体育館。丹下健三の代表的作品であるとともに、東京五輪を象徴する施設です。第一体育館では競泳、第二体育館ではバスケットボール会場となりました。
 代々木競技場から、物産展で賑わう代々木公園イベント広場を抜け、織田フィールド横に残る選手村の記念碑。忘れられたような存在ですが、上面には選手村配置図が描かれています。
 都道413号線を陸橋で渡り代々木公園へ入り、オリンピック記念宿舎へ。オランダ選手宿舎が保存されています。この建屋は、ワシントンハイツのアメリカ軍将校の扶養家族用住宅までさかのぼることができます。
 親柱の擬宝珠に地球儀を乗せた五輪橋から、原宿宮廷ホームをすき間からのぞき、東郷神社を抜け明治通りへ。これは、混雑する竹下通りを迂回するルートです。
 明治通りに面した渋谷区神宮前2丁目に建つ国旗掲揚塔。「昭和41年9月吉日 原宿三丁目町会建立。国立競技場地元町会として・・、参加国の国旗掲揚に使用したポールを・・」とあります。銘版ではふれられていませんが、同時期に「原宿1~3丁目」は、すべて渋谷区「神宮前」に変更されていますので、原宿三丁目の名前を遺す意味合いも含んでいるかも知れません。
 鳩森八幡神社周辺で昼食。境内には寛政元年(1789)の築造と言われる都内最古の富士塚があり、登頂した人も。近隣の飯屋は、味量とも抜群だったようです。
 午後の部は、謡を嗜むAさんのガイドで、国立能楽堂の資料展示室を見学。教養が微増したかも。
 能楽堂からは都道414号線を東京体育館へ。この道は明治神宮内外苑連絡道路として計画された由緒ある道で「裏参道」と称されていました。画像左側にあった乗馬道は、首都高高架下の細長い駐車場となっています。
 1990年竣工の東京体育館。設計者の槇文彦は、新国立競技場建設計画の問題点を指摘し、白紙撤回の気運を作りました。特徴ある低い軒線は、景観への影響を意識したものでしょう。1954年に完成した先代は、体操競技で使用されました。
 更地になった国立霞ヶ丘競技場。バックスタンドの傾斜は、地形を利用したものであることが見て取れます。
 下見(2015/8/31)の際に、すき間から見た工事現場。今は完全にフェンスで覆われています。
 解体中の日本青年館。神宮外苑は、民間の寄付金と献木、青年団による勤労奉仕によりつくられ、明治神宮に奉献されました。日本青年館は、全国からの勤労奉仕の宿舎として生まれました。
 東京六大学野球の歓声のなか神宮球場スタンド下をめぐり、15:00 聖徳記念絵画館到着。
 絵画館前には、樺太島日露国境天測標のレプリカが設置されています。絵画館には「樺太國境劃定」画が展示されており、そのつながりで1926年に旧樺太庁から寄贈されたものです。菊の紋章の反対側には双頭鷲紋章とキリル文字でロシアが刻字されています。(裏側、見そこねました)
 最後は、明治神宮誕生の緒となった葬場殿跡。当時は青山練兵場であったこの場所で大喪が行われました。場所を示すだけで、当時の遺構はありません。絵画館の裏手、駐車場の奥にあります。
Google Earth での巡検鳥瞰ルート
航空写真。高度250m 時速80km。データは2013年なので、取り壊し前の国立競技場が映っています <3:59>

高度を上げて、スピードアップしたもの。ルートを表示したバージョン。 <2:04>

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